銀座の鐘 | 日本基督教団 銀座教会 Just another WordPress site Fri, 05 Jan 2024 00:43:01 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.2.19 神の憐れみによって /bell/9654/ Sat, 06 Jan 2024 15:00:16 +0000 /?post_type=bell&p=9654  主の年 2024 年、最初の主日、新年礼拝を共に守れる幸いを感謝いたします。
 新年与えられた聖句は、使徒パウロが伝道者テモテに宛てた手紙です。テモテへの手紙は、ローマやガラテヤなど地域の教会に宛てた手紙と区別して、特定の個人に宛てた手紙で、テトスへの手紙と共に「牧会書簡」と呼ばれます。使徒パウロがローマでの軟禁状態から釈放される頃、教会の運営やキリスト者の生き方など牧会の問題について記した手紙です。テモテはパウロの伝道活動において大切な役割を果たした伝道者です。テモテは祖母ロイスと母エウニケがユダヤ人キリスト者で、父はギリシャ人でした。ユダヤ人への伝道のため、テモテは割礼を受けたことが聖書に記されています。後にテモテはエフェソ教会の監督になったと伝えられています。
 パウロがテモテへの手紙を書いた目的は、1 章 3 節以下に記されているように「異なる教え」、「作り話や切りのない系図」、「悪霊どもの教え」など、テモテが直面していた具体的な問題に対処するためでした。しかし、パウロは具体的な問題に答える前に自らの基本姿勢について語りました。私たちもキリスト者として、様々な具体的な問題に直面します。どうしてよいのか途方に暮れることもあります。その時、一歩退き基本姿勢を整えることが必要です。テモテが直面していた問題は、2 章では祈りについて、3 章では監督、奉仕者の資格、5 章以下も具体的な教会の課題です。そのような具体的な問題に取り組む際に、最も大切なことは、テモテが伝道者としての基本姿勢を整えることだと考え勧めています。
 使徒パウロは伝道者の基本姿勢を語る時、伝道者自身の資質や研鑽などではなく、まず主イエス・キリストが強くしてくださると語りました。師匠が弟子に忍耐しろとか頑張れとか、弱さや欠点を問題にして補強せよと助言していません。そうではなく、主イエス・キリストが強くしてくださると語ります。パウロ自身の伝道者としての経験から、主イエス・キリストが強くしてくださったと証しをしています。パウロ自身、どのようにして強くしていただいたのかというと、12 節「この方がわたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」。主イエスがパウロに伝道の務めを与え、使徒に就かせてくださった。ゆえに、強くされたというのです。
 私たちは教会においても職場においても、責任ある職務に就くことに直面します。そのたびに戸惑います。そして、できればそのような重い責任は負いたくないと考えることが多いのではないでしょうか。しかし、使徒パウロは、神に用いられることによって強くされた経験を通して、職務に就き、主なる神の支え、導き、鍛えられて、主にあって強くされたというのです。キリスト者としての仕事はそういうことがあるのではないでしょうか。大切な仕事を託されること、責任を持つ与えられたすべての職務は、神によって与えられた務め、天職であると受け止めます。そして、主イエスによって強くされるのです。
 パウロは、キリストに出会う前、神を冒瀆する者でした。キリスト者迫害の先頭に立っていました。しかし、神の憐れみを受けました。使徒言行録 9 章にパウロ、当時はサウロとして、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた姿が記されています。しかし、神の憐れみを受けました。サウロは天からの光に照らされて、地に倒されました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、サウロがあなたは誰ですかと問うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」。サウロが迫害していた主の弟子たちの痛みを誰よりも主イエス・キリストが感じ取っていてくださり、声をかけたのです。
 使徒パウロは、伝道者となった後も、キリスト者を迫害していた過去によって、人一倍、多くの困難を経験しました。迫害者から伝道者へ 180 度方向転換したことにより、ユダヤ人からもキリスト者からも信頼を失い、キリストに仕える道は厳しいものでした。しかし、にもかかわらず主イエスに従うことでパウロは強くされました。パウロは悔い改め、主イエス・キリストの支え導きによって、強くされました。
 この経験は、ほとんど全てのキリスト者が経験しているのではないでしょうか。私たちの資質によるのではなく、キリストが強くしてくださるのです。
 使徒パウロは肉体のとげが与えられていました。コリントの信徒への手紙二12章7~10節「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
 私たちが信仰を与えられて生きるということは、キリスト抜きで生きているのではありません。キリストの使命を与えられて生きているのです。キリストの働きにあずかって生きているのです。私たちに与えられた仕事や職務が何であっても、そこにはキリストが私たちをその職に就かせたという任命と使命があるのです。私たちがどんな「とげ」をもっていても、テモテへの手紙1章14節にあるように、私たちには十分な恵みが与えられているのです。「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」 キリスト者は、一人一人肉体のとげが与えられています。しかし、それに勝る主の恵み、信仰と愛があふれるほど与えられているのです。主イエスの憐れみ、溢れる恵み、その原点の一つは、主イエスが最後の晩餐の席で、主イエスが弟子たちの足を洗ってくださったことにあると思います。
 ヨハネによる福音書13章1~9節、主イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。主イエスが十字架刑で殺される前の晩、弟子たちとの食事の席上で指導者である主イエスが自ら弟子たち一人一人の足を洗ったという事件です。ペトロとの対話を聞きましょう。「イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」 14「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」
 主イエスがお与えになる憐れみ、溢れる恵みの具体的な姿は、主イエスが弟子たちの足を洗ったことによって示されています。主イエスは自ら私たちの足もとに跪いて私たち罪人の足を手で洗って、拭いてくださいました。洗礼を受けて、聖餐にあずかった一人一人は、主イエスに足を洗っていただいた恵みの経験をしている者です。主イエスが自ら奴隷のようにひざまづき、足を洗ってくださったことによって、私たちは強くされるのです。主イエスの憐れみ、溢れる恵みは、弟子たちの足もとにひざまづくことによって、互いに足を洗い合って強くされるのです。
 相手の足もとに跪くことは、相手より低い姿勢になるのです。お互いに自らを低くすること、すなわち謙遜な姿勢です。しかし、ここで主イエスが教えていることは、私たちが人間同士の関係で相手と対等であると理解し、愛し合う謙遜な姿勢を実践しなさいということを越えています。謙遜であり、更に、罪を赦す神との関係です。弟子たちの足を洗った主イエスは、翌日、十字架上で罪の赦しを祈ってくださいました。互いに足を洗い合うこと、主イエスとの関わりとは、謙遜を越えて、十字架の主イエスを通して罪の赦しを思い起こすことを教えているのです。ゆえにパウロはテモテに 15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と語りました。使徒パウロは人間関係の問題の渦中、罪人である自分自身を救う主イエスを見上げ、自分自身こそ罪人の中で最たる者であることを認め、主イエスに赦された者として伝道者の務めに就くことこそ、基本姿勢であることを確認したのです。この姿勢から問題に取り組むのです。
 信仰者は、主イエスが罪人を救う十字架の犠牲、愛と憐れみによって現された溢れる恵みによって、罪赦されて生きています。この原点に立つことを基本姿勢として、主の年 2024年、主の赦しの力によって強くされたいと願います。祈りましょう。

]]>
宝物が贈られた日 /bell/9592/ Sat, 30 Dec 2023 15:00:52 +0000 /?post_type=bell&p=9592  今朝、主の年 2023年最後の主日礼拝のとき、私たちに与えられましたのは、マタイによる福音書2 章1-12 節に記されたクリスマスの物語です。この福音書に記されているクリスマスの物語は、東の方からやってきた占星術の学者たちが聖なる都エルサレムで、当時ユダヤを支配していたヘロデ王、また、この都エルサレムの人々に驚くべき質問をするところから始まっています。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星をみたので、拝みに来たのです。」(2 節)
 異邦人である占星術の学者たちが、この聖なる都エルサレムにやってきたその理由がこの言葉にはっきりと記されています。占星術の学者たちは東の方にある彼らの故郷において、ユダヤ人の王としてお生まれになった方、イエス・キリストの星を見て、それで旅をしてやってきたというのです。つまり、彼らは何かのついでにこの都エルサレムに寄ったのではなく、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来た、ただそのためだけに、遠路はるばる険しい旅を乗り越えて、この都エルサレムに来たのです。
 しかし、彼らは東方からやってきた占星術の学者ですから、ユダヤ人の王がどこにお生まれになるかと預言していた旧約聖書の言葉、預言者の言葉を知りませんでした。ですから、ユダヤ人の、神の民イスラエルにとって、聖なる都であるエルサレムこそ、ユダヤ人の王がお生まれになるのに相応しい場所だと考えて、彼らはこの都エルサレムの宮殿にやってきたのでしょう。
 ですが、この占星術の学者たちがエルサレムの宮殿に来たとき、そこにいたのはまことのユダヤ人の王ではなく、偽りの王ヘロデでした。このヘロデ王は王という称号がつけられていますけれど、王家出身でも、そもそも生粋のユダヤ人でもありませんでした。彼は元々はガリラヤの領主に過ぎなかったのです。しかし、当時、ユダヤを支配していた大国ローマ帝国からの推薦によって、ヘロデはユダヤ人の王に任命されて王となったのでした。つまり、成り上がりの王、偽りの王、それがヘロデ王でした。
 このような成り上がりの王ヘロデは、あらゆる反抗に対して弾圧する体制を万全に整えていたのにも関わらず、いつも王位から失脚してしまうのではないか、また、暗殺されるのではないかという不安に苛まれていました。しかし、何も知らない占星術の学者たちは、まことのユダヤ人の王の誕生の知らせをこの偽りの王ヘロデに対して告げてしまったのです。当然、ヘロデは自分の王位を揺るがす存在、まことのユダヤ人の王がお生まれになったという知らせを聞いて、不安を抱かずにはいられませんでした。彼は自分の地位が脅かされ、今のこの生活が剥奪されてしまうと思い、大いに動揺したのです。このヘロデの抱いた不安、動揺は、生まれたばかりの救い主を殺害する計画をすぐに企てるほど大きなものでした。
 しかし、私たちがこのクリスマスの物語を読むとき、注意しなければならないのは、まことのユダヤ人の王の誕生を聞いて不安を抱いたのは、このへロデ王だけではなかったということです。それは3 節に、エルサレムの人々も皆、ヘロデ王と同様に不安を抱いたと書かれている通りです。この聖なる都エルサレムの人々が抱いた不安を、私たちは簡単に見逃すことはできません。なぜなら、ヘロデ王が不安に駆られ、生まれたばかりのイエス様を殺すために、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の子どもたちを皆殺しにしたのと同じように、この都エルサレムも、まことの救い主を、彼らの王を拒絶し、殺害することを企てるからです。そして、なによりも、この聖なる都エルサレムにおいて、まことのユダヤ人の王としてお生まれになったお方、救い主イエス・キリストが苦しみをうけ、十字架へとかけられることをこの福音書は記しているからです。
 さて、救い主、まことのユダヤ人の王誕生の知らせによって、不安に捕らわれ、殺害計画を企てるヘロデ王やエルサレムの人々の姿が記されている一方で、占星術の学者たちの旅が 9節以降から再び始まります。この都エルサレムからベツレヘムへの旅の中で、学者たちが夜空を見上げると、彼らが東方で見たあの星が再び現れました。聖なる都エルサレムの人々ではなく、神から選ばれなかった民、神から遠く離れていると考えられていた異邦人である占星術の学者たちの前に、この星は再び姿を現したのです。そして、彼らに先立って進み、彼らを導き、幼子のいる場所の上に止まったのでした。遠い東の国から異邦人である自分たちを招き、ついにユダヤ人の王としてお生まれになった方のもとへ導いてくださったその星を見て、彼らは喜びにあふれずにはいられませんでした。こうして、主なる神様の導きの星によって、まことのユダヤ人の王、メシア、救い主を礼拝する、ただそのためだけの旅の目的地へと、彼らはついにたどり着いたのでした。
 占星術の学者たちはこの上もない、非常に大きな喜びにあふれて、早速、星が止まった幼子のいる場所、家へと入っていきます。彼らの長く険しい旅の目的地である幼子の家に入ると、彼らの目には、生まれたばかりの幼子イエス様と、母マリアが映りました。このまことのユダヤ人の王の姿は、占星術の学者たちが、ユダヤ人の王がお生まれになるのに相応しい場所だと思ってたどり着いた、あの聖なる都エルサレムの豪華な宮殿の中にいた、一目で王と分かるヘロデ王とはかけ離れた姿だったでしょう。しかし、王がいるのに全く相応しくない、このベツレヘムという小さな村の家の中で、人の目から見ればまるで王には見えない、幼子であるイエス様に出会ったとき、彼らは「ああ、この方こそが、まことのユダヤ人の王、メシア、救い主なのだ」と分かったのです。
 それゆえに、彼らは幼子イエス様を、まことの救い主を前にし、ひれ伏して拝み、礼拝したのでした。そして、幼子のイエス様を礼拝した後、彼らは持参してきた宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬をユダヤ人の王、メシアであられるイエス様に贈り物として献げました。ある解釈に依れば、この黄金、乳香、没薬は占星術の学者たちの商売道具であったといいます。そうだとすれば、彼らはこれまでの人生において、大切に宝箱にしまいながら肌身離さず持っていたこの宝物たちを使って生活していたのです。しかし、それにも関わらず、この非常に高価で、最も大切な商売道具を、彼らはイエス様に献げたと聖書は私たちに伝えているのです。
 言うまでもなく、商売道具であるこの宝物をイエス様に献げてしまった彼らの生活はこれまでどおりとは行かなくなるでしょう。それは 12 節の「別の道を通って」と言う言葉からも、暗に示されていると思います。これまで生きてきた生活や環境や価値観ががらりと変わるとき、私たち人間は大きな不安を抱きます。それはマタイによる福音書のクリスマス物語において、まことのユダヤ人の王の誕生の知らせを聞いて、これまでの自分たちの生活が大きく変わってしまうのではないかと不安を抱いたヘロデ王やエルサレムの人々の姿からも示されています。
 しかし、一方で、このクリスマスの物語には、神様の導きの星を見て、自分たちをユダヤ人の王のもとへ、救い主のもとへと招いてくださっておられる方がいると確信し、覚悟を決めて、自分たちのこれまでの生活をすべて投げ出す異邦人、占星術の学者たちの姿が描かれているのです。救い主を礼拝するための旅に出て、さらには生計を立てるための、大切な宝物を自ら差し出す彼らの姿がはっきりと示されているのです。なぜ、占星術の学者たちは、このように彼らにとって最も大切な宝物を喜んで差し出すことができたのでしょうか。
 それは占星術の学者たちが、自分たちがこれまで持っていた宝物よりも、もっと高価で尊い宝物を、クリスマスの日に、主なる神様から贈られ、受け取ったからでした。確かに彼らが献げた黄金、乳香、没薬も大変貴重で高価な宝物です。しかし、クリスマスの日、神様から彼らに贈られた宝物は、比較にならないほどの輝かしい宝物でした。なぜなら、主なる神様がクリスマスの日に彼らに、また、私たちすべての民に贈ってくださった宝物とは、神様の愛すべき独り子イエス・キリスト、私たちの救い主だったからです。この世界の誰一人として得ることができない罪からの解放、罪の赦しを私たち罪人に与えてくださる唯一のお方、救い主イエス・キリストがクリスマスの日に、私たち一人一人のために、神様から贈られたのです。
 私たちはこのクリスマスの物語を読むとき、占星術の学者たちの贈った宝物ばかりに目がいってしまいます。ですが、まず最初にこのクリスマスの日に宝物を贈ってくださったのは神様であったということを、私たちは改めて覚えたいと思います。
 神様が地上のどんな宝物と比べても、比較にならないほどの宝物を、罪から私たちを救ってくださる救い主を私たちに与えてくださったことを、私たちはイエス様と出会った時、初めて知ります。また、占星術の学者たちがイエス様と出会い、「この方こそ、私たちの救い主だ」と知ったとき、喜んで自分の宝物をささげ、神様から遠く離れていた罪人としての生活から全く変えられて、神様と共に生きる道へと帰っていたように、私たちもイエス・キリスト、主なる神様の宝物と出会うとき、信仰者として新しくされるのです。これまでとは別の道を歩む者へと変えられていくのです。失ってしまったらどうしようと宝箱におさめて肌身離さず持っていたいつかは朽ちてしまう宝物から解放されて、失われることのない、朽ちることのない宝物を携えて、生きていくことができるようにされるのです。なぜなら、クリスマスの日に私たちに与えられた宝物、イエス・キリストについて、マタイによる福音書はすでに 1 章23 節でこのように記しているからです。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
このように、クリスマスの日に私たちの世界へ神様が与えてくださった宝物、イエス様は、私たちといつも共におられるまことの神であられるお方なのです。このことを覚え、深く感謝しながら、新しい主の年も神様に感謝と賛美の声を上げながら、皆様と共に歩んで参りたいと願います。

]]>
羊飼いたちのクリスマス /bell/9548/ Sat, 23 Dec 2023 15:00:50 +0000 /?post_type=bell&p=9548  主の年2023年クリスマス礼拝に導かれたことを感謝いたします。今年も神は私たちの羊飼いとして、一人一人を養い育て守ってくださいました。羊飼いが羊の姿を見つめながら、健康管理、交わりを見守り、時に羊の名を呼び共に歩くように、神は私たちを見守り、体だけでなく健やかな信仰生活を与えるために祈り、苦しみの時も不安な時も悲しみの時も喜びの時にも共にいて下さいました。必要な恵みを与えてくださったことを思い起こし感謝いたします。神の恵みに対して、私たちは名を呼ばれても聞こえなかったり、返事をしなかったり、群れを離れたり、迷える羊であったことを思い起こします。神は羊飼いが羊を守るように私たちを導いてくださいましたが、御心に従わなかったことを悔い改めたいと思います。そして、今、礼拝へと導かれて、神の御前に立っています。
 ルカによる福音書2章には、野宿して、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いの姿が記されています。聖書の時代、羊飼いの姿は人々がよく見て知っている光景であったと思いますが、羊飼いでなければ分からないことが少なくなかったことでしょう。羊飼いが野宿していることを知っていても、羊を守るためにどのようなことをしているのか、実際の野宿の経験は、羊飼いしか知らないことが多いと思います。羊の群れを守り、野宿することは羊飼いの大切な仕事でした。
 ある夜の羊飼いが経験した出来事です。羊飼いたちはいつものように野宿していました。夜通し番をしていた時のことです。闇夜に天使があらわれ、天使の声を聞いたのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 「恐れるな」「大きな喜びを告げる」「あなたがたのために救い主がお生まれになった」との天使の声を聞きました。神はなぜ、羊飼いに救い主の誕生を知らせたのでしょうか。神が救い主の誕生という大きな喜びを伝える人として、羊飼いを選んだのです。羊飼いが立派だったからでしょうか。特別な羊飼いがいたのでしょうか。天使はエルサレムの神殿やローマ帝国の皇帝に主イエスの誕生を伝えたのではなく、名前も伝えられていない、ある地方の羊飼いに、イスラエルの神の民が何千年もの間、待望していた救い主の誕生の知らせを伝えました。
 天使の声を聞いた羊飼いの名前も、働きも聖書は記していません。羊飼いの功績によって選ばれたのではないようです。世界を大きく変える大切な出来事を「ある地方の羊飼い」に伝えたことの意味と神の意図を私たちはどのように受け止めたら良いのでしょうか。
 主の天使が羊飼いに救い主の誕生を告げた積極的な理由は、イスラエルの神の民が忘れかけていたアブラハム、イサク、ヤコブという創世記に登場する族長たちを思い出させるためであったと考えることができると思います。旧約聖書ではアブラハム、イサク、ヤコブだけでなく、モーセもダビデも羊飼いの経験をもつ者です。イスラエルにおいて最も尊敬されていたモーセやダビデ王を思い起こさせるためと受け止めることもできるでしょう。また、預言者ミカが羊飼いを「羊の群れを見張る塔」と呼び、エルサレムの王を指し示したことを思い起こすためだったと理解することもできるでしょう。
 「7 しかし、わたしは足の萎えた者を
   残りの民としていたわり
   遠く連れ去られた者を強い国とする。
   シオンの山で、今よりとこしえに
   主が彼らの上に王となられる。
  8 羊の群れを見張る塔よ、娘シオンの砦よ
   かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が
   お前のもとに再び返って来る。」
ミカ書4章7~8節
 聖書において羊飼いは、良い評価もあれば悪い評価も記されています。しかし、旧約聖書において羊飼いは、疎外された人々というよりも、巨人ゴリアテを倒した勇敢な羊飼い少年ダビデを思い起こすのではないでしょうか。羊飼いこそ、夜通し羊の群れを守って、クリスマスの夜、目覚めて天使の声を聞いた人々です。闇夜の中で、私たちが寝てしまっているとき、私たちの代わりに最初に天使の声を聞いたのがクリスマスの羊飼いたちです。私たちの代表として天使の声を聞いたのが、ルカによる福音書 2 章に登場する主イエスを礼拝した羊飼いです。私たちは羊飼いの姿勢から学ばなければならない大切なことを受け取りたいと思います。
 旧約聖書、詩編 23 編には、「主は羊飼い」という言葉があります。イザヤ書 40 章では「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」と記され、やはり主は羊飼いであると語られ、羊の群れを養い、子羊を抱いてくださる姿が描かれています。旧約聖書は「主は羊飼い」と記し、この地上で羊を養い育てる主なる神を羊飼いにたとえて語っているのです。主は羊飼い、神の姿がこの地上において羊飼いにたとえられていることは大切なことです。
 新約聖書において羊飼いは、ヨハネによる福音書 10 章で「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」
 羊飼いは羊を呼び、羊は羊飼いの声を聞き分けるという深い信頼関係があることが記されています。ヨハネによる福音書 10 章には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と主イエス自ら羊飼いであると語っています。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と記されています。
 良い羊飼いは、羊を置き去りにすることはしません。良い羊飼いは自分の愛する羊を決して置き去りにすることなく、羊のために命を捨てると、主イエスはお語りになりました。主イエス・キリストこそ、羊飼いの羊飼いなのです。だからこそ、ルカによる福音書は、羊飼いの羊飼いである救い主がお生まれになったことを誰よりも一番に、この地方の羊飼いに告げ知らせたのではないでしょうか。
 クリスマスは、この地上に神の御子イエス・キリストがお生まれになったということは私たちのために命を捨ててまでも愛してくださる真の羊飼いが誕生したとの知らせなのです。主イエスのご降誕は、神が御自身の羊のために命を捨てる、真の羊飼いの誕生を伝えているのです。クリスマスの喜びはここにあります。脇見をして目の前の羊を見失って迷子になってしまう羊がいます。怖がりの羊がいます。食べものに執着する羊もいます。良い羊飼いである主イエスは、全ての羊をよく知っていて、その名を覚えていて、愛してくださっているのです。私たち一人一人を愛する羊として養い育て、命をかけて愛し抜いて下さるのです。ゆえに天使は「大きな喜びを告げる」と語ったのです。神は羊飼いの羊飼いである主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを最初に告げ知らせる相手に羊飼いを選んだのです。
 救い主を与えられた喜びを聞いた羊飼いたちは、天使の讃美を聞きます。「 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。」

 クリスマスの神を賛美する言葉は、神の栄光を讃美します。栄光とは、羊のために命を捨てる力です。主イエスが命を捨ててまでも愛してくださった救いの力です。この力が栄光です。ヨハネによる福音書 17 章で主イエスが決別説教の後、十字架にお架かりになる前日に祈った主イエスの祈りが記されています。主イエスは真の羊飼いとして、栄光を与えてくださいと祈って十字架へ進みました。私たちの罪を赦し肉体の死を超えた新しい命を与える力、栄光が与えられました。この栄光は主イエスを死から引き上げた平和の神の力です。この栄光は永遠の命の約束の根拠です。
 クリスマスを迎えるということは、真の羊飼いである救い主に導かれて、神と共に生きることであり、死を超えて新しい命に生きる、永遠の命を与えてくださるお方に従うことです。私たちはこの世の誘惑から守られて、真の羊飼いの声を聞き分け、御言葉を命の糧として、養われるのです。
 世界を脅かす武器の力は本当の力ではありません。報道されている権力者が真の指導者ではありません。真の羊飼いは十字架上で祈っておられます。真の羊飼いは、復活のキリストとしてお姿を現してくださいます。十字架と復活の主の栄光に照らされて、主の年2024年を迎えましょう。

]]>
創造に先立って知られたキリスト /bell/9481/ Sat, 16 Dec 2023 15:00:54 +0000 /?post_type=bell&p=9481  アドベントの第三主日を迎えました。来週はクリスマス礼拝がささげられます。イエス・キリストがパレスチナの地に誕生され、その生涯を送られたのにはどういう意味があったのか、世界中の人々が思いを向けるときではないでしょうか。
 何度か礼拝で読み進めてまいりましたペテロの手紙一も丁度その箇所にさしかかっています。20節に「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」とあります。「あなたがたのために現れてくださいました」というのは、「誕生した」という言葉ではありませんが、姿を現わし御自身を示されたことで、クリスマスでの誕生からその生涯の全体にわたって御自分を現し、神から使命を果たされたことを意味しています。そして主イエスが現れたのは、終わりの時代を画することでもあったと記されています。
 文章のつながりを言いますと、「あなたがたは先祖伝来のむなしい生活から贖われた」と言われ、それは「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」と言われました。この主文章のキリストを受けて、その説明として分詞形で二つのことが記されます。一つは「天地創造に先立ってあらかじめ知られた方」である、その方の血によった贖いであったという表現であり、もう一つは「この終わりの時代にあなたがたのために現れた方」と言います。クリスマスとその後の主の御生涯、パレスチナでの主のお働きやその使命も含んで十字架にお架かりになった、その尊い血による贖いであったと言われます。
 はじめの表現に注意を向けてみましょう。キリストはあらかじめ知られた方、しかも天地創造以前、天地とあるのは「コスモス」と言う言葉で「世界」あるいは「宇宙」と訳してもよいでしょう。その創造の以前、ですから世界も万物も人類も、一人一人の人間も存在させられる前にキリストはあらかじめ、前もって知られていたと言います。主イエスのことはクリスマスの主の誕生の前にあらかじめ知られていたと言うのです。誰が知っていたのでしょうか。まだ人間も世界も創造される以前ですから、知っておられたと言えば、神以外にはおられません。神の御心の中にキリストのことがあった。「キリストの先在」と言われることがここに暗示されています。クリスマス以前に、さらには天地が造られる以前に、神の中にキリストはおられ、知られていました。ということは、キリストは神の永遠の中に御父から生まれ、そのキリストによって贖いの救いを遂行することが、神の御意志、神の御計画として創造以前にあったのだというのです。キリストが世の創造に先立って知られていたということは、主キリストはクリスマス以前に御子なる神として永遠に生まれ、世界創造以前におられ、神の救済を遂行するという神の偉大な意思決定、その御計画があったということです。キリストの尊い血を指差しながら聖書が語る創造に先立つキリストの証言は重大な意味をもっています。救いの神であろうとされる神の意志決定は、あらゆるものの創造に先立っていました。キリスト教信仰が証言する極めて重大な信仰がここにあります。主キリストの尊い血は、世界創造に先立つ神の御意志を示し、神の恵みによる救いの御計画を示します。神の救いの御計画が世界の全現実を支配しておられると分かります。
 「キリストは天地創造の前からあらかじめ知られていました」。この一文に、キリストによって世界を救済する神の大きな御計画、その神の御意志が示されています。創造に先立つ神の意志決定、その御計画があって、それに基づき主イエスのクリスマスの誕生とその後の生涯における働きが神の働きとしてなされたわけです。
 その主が現れたのは「あなたがたのため」であったと言われます。クリスマスも主の十字架もあなたがたのためでした。この「あなたがた」というのは誰のことでしょうか。手紙の宛先人は、「各地に離散し仮住まいをしている選ばれた人たち」、つまりその時代のすべてのキリスト者たちであり、神の民のことです。キリスト者として神の民に選ばれたのも創造に先立つ神の御計画の中のことです。救いの根拠は、創造に先立つ神の御計画の中にすでにあったことでした。
 選ばれた人たちは神を信じます。漠然たる神ではありません。大きな御計画を持って、すべてに先立ってイエス・キリストの尊い血による贖いの救いを決意され、その御計画のなかで救いに与るすべての者を選んでおられる神です。そしてイエス・キリストの十字架における尊い血の中で贖いの業を行なう神です。その神に選ばれた人々が神を信じます。ここにはさらに、その神はキリストを死者の中から復活させ、栄光をお与えになったと言われます。その神を信じているというのです。
 たった二節の言葉です。わずかな言葉による文章ですが、偉大な神を語っています。多くの人々は、世界と言い、宇宙と言えば、それ以上はない広大な世界と思っているでしょう。しかしそのすべてが神の御計画の大きなスケールの中に入れ込まれています。イエス・キリストとその御業、そしてそれをとおしての神の偉大な御意志と御計画の中で、世界の時代はその一コマにすぎません。神の偉大な御計画と主イエス・キリストの働きを記しているのは、ペトロの手紙だけではありません。エフェソの信徒への手紙にもありました。エフェソでは「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(1・4)と言われています。
 聖書は論文を書いているわけではありません。素朴な信仰で聞くべき神の御業の証言を記しています。しかしこのように証言されている偉大なスケールの神の御業を素朴な信仰はしっかりと聞くのではないでしょうか。聞いて信じます。いや、自分一人では信じられないでしょう。けれども「キリストによって信じています」と言われます。キリストによって信じることで、信じられます。「キリストによって」とは、尊い血によってむなしい生活から贖い出してくださったキリスト、そして神により死者の中から復活させれ、栄光を与えられたキリストです。そのキリストによってわたしたちは信じます。栄光を与えられ、やがて栄光の内に来られるキリスト、しかもいますでに私たちに伴い現在しておられるキリスト、今共にいてくださるキリストによって私たちは神を信じています。宇宙万物を創造されるまえに、救いの御計画を主キリストにあって意志決定された神、その主キリストによる救いに与る人々を選ばれた神を信じます。主イエス・キリストの十字架によって贖いによる救いを果たされた神を信じます。そのキリストを復活させて、生ける者と死ねる者との主になさり、主キリストに栄光をお与えになった神を私たちは信じます。キリストによって信じます。キリストにあって働く生ける神にこそ、世界と人生の最も究極的な真理があります。
 それで今朝の段落の最後は「従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっている」と言われます。わたしたちの信仰と希望とは神にかかっている。つまり私たちは、神にかけた信仰を生き、神にかけた希望を生きます。それが救いに入れられているということでしょう。この信仰を持ち、この希望を生きることができるのは、幸せではないでしょか。
 人生の目的は何か、人生の幸福は何かと、ジュネーヴ教会信仰告白は問います。普段はあいまいにしているかもしれません。しかし自分の人生の目的、また人生の幸せは、時には改めて問う必要があるのではないでしょうか。その答えは、どちらも「神を知ることです」と答えます。人生の目的は、今朝の御言葉で言えば、神にかけた信仰を生きることではないでしょうか。人生の幸福とは何でしょうか。どんなときにも神に希望をかけて生きることがきることです。キリストによって神を信じ、キリストによって神に希望をかけることができることは、この上なく幸福なことであると知るべきでしょう。

 聖なる天の父、待降節の礼拝にあたり、主イエス・キリストが創造に先立ってすでに知られていたという御言葉の意味について思いを向けることができ、感謝いたします。私たちの目の前の世界の現実はまことに混乱の中にあり、生きるすべを失うような状態であります。しかし主イエスを信仰の目に仰いで、あなたの深きみ旨と堅固な救いの御意志を知り、また主の十字架の血潮にその実現があることを知って、感謝いたします。あなたを信じ、あなたに希望を置くことを私たちの人生の目標とし、またこの上ない幸せとして歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

]]>
なるがままに /bell/9426/ Sat, 09 Dec 2023 15:00:12 +0000 /?post_type=bell&p=9426 1、マリア、天使ガブリエルに、受胎告知される
 今日から、待降節に合わせましてルカによる福音書の御言葉を聞いていきたいと思います。今日わたしたちに与えられました御言葉はルカによる福音書第1章の、マリアの受胎告知の箇所であります。ここでは、一人の、名もない田舎娘のマリアと言う少女のところに、天使ガブリエルが天から遣わされ、いきなり、あなたのお腹に神の御子が宿られたと告げるのであります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
 しかしマリアには、この出来事が何の意味であるのか分からず、不安な気持ちになってしまうのです。最初、この出来事は、不安と怖れでしかありませんでした。クリスマスの出来事は、とても素晴らしい、大いなる喜びのはずであります。しかしこのマリアもそうでしたし、夫であるヨセフもそうでした。それどころか、占星術の学者が、いち早くユダヤ人の王がお生まれになったと言うことを聞いたときのヘロデ王や、エルサレムの人々にとっても、その知らせは、喜びではなく不安であったとあります。そのまま、不安の中、妬みにかられて 2 歳以下の子供を皆殺しにしたヘロデ王のような愚かな人もいれば、不安を乗り越えて、確かな喜びに行きついた人々。マリアやヨセフのような人々もおります。しかし、救い主がわたしたちのところに来られる。その素晴らしい知らせは、不安や苦しみを通り抜けなければ行き着くことのできないものであるのかもしれません。あるいは、この不安を乗り越えて喜びにあずかるかどうかということが、人々をして、神の民かそうでないかを分ける試金石のようなものであったのではないかと思うのです。
 なぜ、このときマリアが不安になったのか。それは、結婚していない身でありながら、子どもを宿すということは、当時のイスラエルの社会にあって、決してあってはならないことであるからであります。誰とも関係をしていないのに、自分の体に子供が宿っている。それだけでも大きな不安が生じます。しかしそのことが知られたら、自分の身が危うくなってしまうのであります。姦淫の女として石打の刑によって殺されてしまうのであります。それは心中穏やかでいられるわけはありません。マリアは、天使を通して、これが大いなるご計画のもとにあるということを聴きはしましたが、それよりも、目に見える現実。このまま自分のお腹が大きくなってしまうならば、自分の身は確実に破滅を招くことになるという、そういう現実に対する不安が押し寄せてきたのであります。
そして、このような大きな不安の中では、まさにそこにおいてこそ神が解決の道を開いてくださっているという事実。そこにおいてこそ神に自らを委ねなければならないということが、すぐにはわからなかったのではないでしょうか。わたしたちの人生においても、先が見えないような不安に陥ってしまうことがあります。そのような不安や、怖れと無縁である人などはどこにもおりません。自分の努力や、力ではどうしても解決できないような出来事があります。あるいは、人に相談することで解決の道が開かれることもありましょう。しかし、人に話しても、結局は自分で負わなければならない重荷であったり、不安であったりすることもあります。自分の生活のことを全て助けてくれる人などはなかなかおりませんし、病気になった時に、治るかどうかは、わからないのです。結局は自分の問題である。自分だけの不安。重荷である。そういうことが人生にはあります。
しかし、そういう、人間の力ではもはやこれ以上進めない。これ以上どうにもならないというときにこそ、神に委ねなければならないのであります。そうであるならば、神は、私たちが本当に神に委ねることを学ばせるために、あえて、困難な状況。不安な状況を経験させられるということがあるのではないでしょうか。ですから、治らない病気や、どうしようもない人間関係のいざこざ。解決のつかない問題。そういうところから神の恵みを知らされたと言う人は多くおられるのです。
そして、クリスマスの喜び。救い主イエス・キリストの誕生とは、そのような、わたしたちの人生の助け主。救い主として主イエスが来てくださったのだと言うこと。わたしたちのそのような不安や苦しみを解決してくださる方として来てくださった方なのだということを知るのであります。

2,全てをゆだねるマリア
 マリアは、不安もあったことでしょうが、しかしこの天使のお告げを信仰において受け止めるのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
主のはしためとは、女奴隷という意味であります。今の時代にあって、奴隷などという言葉はおかしいと思われるかもしれません。しかしこの時代にあっては、奴隷は一般的でありました。死ぬのも、生きるのも、主人の思いのまま。それが奴隷の運命であったのであります。マリアはここで、神のはしためとして、生きるも死ぬもあなたの思いのままですと言うのです。そのように、神に自分をささげ、委ねたとき、マリアの心に喜びが与えられたのであります。
マリアは、大きな不安の中で、これは自分にはどうしようもない、どんなに考えtrも、どんなに悩んでも、自分の力で解決できる問題ではないということを知りました。そのとき、もはや神に委ねるほかない。神が、全てを解決してくださるだろうと信じたのであります。そのときに、マリアの不安は取り除かれ、喜びに満ち溢れたの
です。
 わたしたちも、マリアと同じように神の僕であり、神のはしためであります。神の奴隷などと聞くと、奴隷などという言葉はいやだなと感じる方もおられるかもしれません。しかし、この奴隷という言葉でしか言い表せない事柄があります。わたしたちは、救われて神の奴隷。義の奴隷とされた、と使徒パウロは、ローマ書の中で述べております。しかし、神の奴隷である前にわたしたちはなんであったのか。罪の奴隷であったのであります。もろもろの罪の縄目の中で不自由にもがき、苦しんでいたのであります。不安や苦しみというものも、もとを突き詰めれば、わたしたちの罪から生じてくるものであると言えます。しかし、主イエスの救いを信じたわたしたちは今、罪の下にあるのではなく、神の恵みのもとにあるのであります。そうであるならば、救われてなお生じてまいります不安は、神が必ず取り除いてくださるものなのであります。そのことを期待してよいのであります。
 わたしたちは、新しい命に生き、神の栄光を現すために、神様の奴隷とされたのであります。そうであるならば、マリアが神を賛美し、神に栄光を表わしたように、わたしたちもまた、神の栄光のために用いられるはずであります。そのための不安。そのための苦しみなのであります。わたしたちの人生に不安や苦しみがあるのは、わたしたちが、神の力によってそれを乗り越えるためであります。神が、乗り越えさせてくださることをわたしたちが知るためであります。そのために、信仰の飛躍が必要なのです。それが、神に一切を委ねるということであります。
 わたしたちには、神を信頼できない弱さがまだその内にはあると思います。不安な出来事があると、そこですぐに、悲観的に物事を考えてしまいます。そのとき、わたしたちは神が共におられることを忘れているのであります。しかし、人間の力ではどうにもならない時こそが神様に委ねる時なのであります。

3,クリスマスの喜び
 ところで、クリスマスの喜びとは何でしょうか。ある人がこういうことを言っております。それは自分を委ねる方が与えられたと言うことであります。ここで天使がマリアに、おめでとうと言っております。「恵まれた女よ」と告げております。この恵みにわたしたちも皆、あずかることができる。主の降誕は、みんなのための喜びだからであります。マリアにはこれから自分がどうなるかわからない不安がありました。しかし天使を通して告げられたことがありました。それは、主がマリアと共におられるということであります。
主がマリアと共におられるということは、主がマリアの人生に責任をもってくださっていることであります。この問題にも、解決があること。主の導きが確かにあると言うことであります。
わたしたちもそうなのであります。主が共におられる。それが真実の慰めであるのは、主がわたしたちの人生を確かに導いてくださる方として共におられるということだからであります。全ての不安や、苦しみや、どうしようもない事情の中で、主が助け主、慰め主として共におられるということ。そのことを知ることこそが、真実の慰めなのであります。クリスマスの喜びとは、このように、わたしたちの重荷を委ねることのできる方として主イエスが来てくださったことによって、「神がわれらと共におられる」ということに他なりません。
いついかなるときにも神が共におられることを本当に知らされたならば、何を恐れることがあろうか。わたしたちは、その日々の歩みの中で、自分のできる精一杯の歩みをしていきたいのです。そしてわたしたちの力の及ばないことは、共におられる主にお委ねしていきたいのです。そのような思いをもって、わたしたちの人生の救い主。全てをお委ねできる方である主イエスを待ち望んでいきたいのです。

 お祈りをいたします。
 教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神。マリアが不安の中、あなたにすべてを委ねた時、喜びが与えられました。わたしたちの人生も、不安があります。どうしようもない出来事が起こります。しかし、主よ、あなたはわたしたちと共におられ、全てを導いてくださいますから心から感謝いたします。わたしたちも、不安や悲しみを全て、私たちのためにお生まれになった主イエスにお委ねすることができますように。わたしたちの重荷を委ねた時、あなたが、私たちの主であり、わたしたちが生きる時も死ぬ時もあなたのものであることを本当の慰め、また喜びとさせてくださいますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

]]>
与えられた沈黙 /bell/9371/ Sat, 02 Dec 2023 20:34:16 +0000 /?post_type=bell&p=9371  世界のキリスト教会は、主の年 2023 年待降節を迎えました。キリスト教会の暦では、先週の日曜日が終末主日一年の終わりの日曜日でした。そして、本日より新しい一年がはじまります。本日より、主イエスの御降誕を共に喜び祝うクリスマスを迎えるために救い主を待ち望む待降節・アドヴェントの季節を過ごします。私たち一人一人が救い主を迎える準備の時として、大切な祈りの日々を過ごします。
 クリスマスに備える沈黙について、聖書の御言葉にお聞きしたいと思います。与えられた御言葉はルカによる福音書です。ルカによる福音書は、人間の準備の前に、神の先手があったことを伝えています。降誕節は、私たちの準備ではじまるのではなく、神の先手、神の御業からはじまっているのです。この神の先手は、救い主なる主イエスをお迎えするに際して、洗礼者ヨハネを遣わすことでした。洗礼者ヨハネについては、4つの福音書が記していますが、ヨハネの誕生については、ルカによる福音書だけが私たちに伝えています。洗礼者ヨハネの誕生物語を読むために大切なことを確認しておきたいと思います。それは、どうしてクリスマスに関するマタイによる福音書とルカによる福音書の主イエスの御降誕についての物語がこれほど大きく違うのかという事です。この二つの福音書を読み比べると、救い主の誕生について、大きく違っていることに誰もが気付きます。
 マタイによる福音書とルカによる福音書には、主イエス・キリストの降誕を記していますが、二つの福音書は主イエスの降誕への道を二通り記していることになります。この違いをどのように受け止めたら良いのでしょうか。
 マタイによる福音書は、マリアはダビデ家に属するヨセフと結婚し聖霊によって子を宿し、その子は神の御子でありイエスと名づけられます。主の天使が登場し、2章では占星術の学者たちが救い主にお会いすること、ヘロデ王の不安、ヘロデ王による二歳以下の男の子の殺害命令、ヨセフとマリアが主イエスとともにエジプトへ避難したことなどが書き記されています。そして3章で洗礼者ヨハネが登場します。
 ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生の知らせ、天使ガブリエルのマリアへの告知、マリアのエリサベト訪問、マリアの賛歌(マニフィカート)が歌われ、祭司ザカリヤの賛歌(ベネディクトゥス)が歌われます。そして主の天使が羊飼いたちに救い主の誕生を知らせます。このようにマタイとルカでは登場人物も違っています。
 このようにクリスマスに向けて読む二つの福音書の違いは大きいように見えますが、実はとても大切な所で一致しているのです。この点に注目して福音書を読み進めたいと思います。マタイ福音書の系図は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ」という言葉ではじまり、イエス・キリストの起源を語ります。イスラエルに対する神の働きかけの物語として伝えています。マタイのヨセフへの告知には旧約聖書の族長アブラハムの物語と主イエス誕生は深い関係があるのだと語られています。そして主イエスはダビデ家の出身であるだけにとどまることなく、救い主が私たちの間にお生まれになった、今日救い主がここにおられるという驚きと喜びが伝えられているのです。このことを信じる人が正しい人ヨセフです。ヨセフは初めて驚きと喜び、すなわち福音を聞いて信じたユダヤ人です。ヨセフはユダヤ人たちが救い主を信じる信仰と律法への忠実さを両立させる人なのです。このマタイによる福音書のアブラハムから救い主誕生への筋道を大切にしていることは、実はルカによる福音書においても大切にされているのです。
 私たちがクリスマスの物語を二つの福音書から読み始める時、二つの福音書の違いにつまずくことなく、ヨセフへの告知もマリアへの告知も、救い主の降誕は、旧約聖書のアブラハムから救い主の物語が始まっていたことを受け止め、二つの福音書を一つの物語として受け止めたいと思います。マタイとルカだけでなく、マルコによる福音書もヨハネによる福音書も、主イエス・キリストの誕生と伝道の道備えとして、洗礼者ヨハネの洗礼運動が行われていたことを伝えています。マタイによる福音書は第 1 章の系図で「アブラハム」ではじまり、ルカによる福音書でも洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアをアブラハムに似ていることに注目させてここに神の救いの先手があることを伝えているのです。二つの福音書の登場人物やいきさつの違いが目に付きやすいのですが、イスラエルの救いの歴史が大きく前進している、真の救い主をお迎えする決定的な出来事がここに起こったこと、すなわち神の救いの物語としてアブラハムから洗礼者ヨハネを通して主イエス・キリストの誕生を伝えているのです。これが神の救いの筋道であると二通りの仕方で伝えているのです。
 本日与えられたルカによる福音書1章5節以下では、洗礼者ヨハネの誕生が予告されています。ヨハネは母の胎内にいるときから聖霊に満たされていました。すなわち、神に選ばれた人なのです。そして、ヨハネは「イスラエルの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」働きをするのです。洗礼者ヨハネは悔い改めを語って活動しました。洗礼者ヨハネはすべての人が悔い改めて、身も心も神へ向き直ることによって救い主を迎える姿勢を整え、洗礼運動を行いました。
 悔い改めるということは、私たちが清く正しい人間になることではありません。そうではなく、私たちが罪深いものであることを認め、神に心を向け、神を仰ぐことです。そこに救い主が来てくださるのです。
 祭司ザカリヤはエルサレム神殿の祭司でした。妻はエリサベト、二人とも神の前に正しい人でした。妻エリサベトは子どもがありませんでした。すでに二人とも年をとっていました。イスラエルにおいて子どもがないということは、神の祝福から遠いと判断し、大きな悲しみ苦しみでした。創世記のアブラハムとサラに似ています。神の先手は祭司ザカリヤに対して悔い改めを求めました。13から16節、主の天使が現れて、エリサベトは男の子を産むヨハネと名付けなさいとのお告げを聞きました。
 アブラハム夫妻とおなじように祭司ザカリヤ夫妻も、主の天使の言葉を聞いて信じることが出来ませんでした。アブラハムの妻サラは、神の言葉を聞いて笑いました。ザカリヤは祭司として神殿に仕え香を焚く者でありながら、アブラハム夫妻と同じように、いくら神さまでも出来ない事があると思い、神より自分のことは自分がよく理解していると理解し、自分を神より上においていたのです。
 祭司ザカリヤこそ悔い改めて神の御前に立たなければならないことが神によって指摘されているのです。神を信じ、神に従っていると誰もが思う祭司こそが神を疑い神を笑っていることを神はご存じなのです。そして20節、ザカリヤは沈黙の時を与えられました。
この沈黙は神の恵みを知らされても信じることが出来なかった罰を受けたのでしょうか。そうではありません。御言葉を聞き沈黙する時を経て、1章64節でザカリヤの口は開かれ、神を賛美します。神の救いの御業に関わる者として真実に神を賛美するための時間が与えられたのです。神の御前に悔い改める沈黙の時間は貴重な時間です。ザカリヤは話すことができない日々、沈黙し神のみ声を聞き続けたのです。
私たちは沈黙の時が必要です。神の言葉と人間の言葉を聞き分ける訓練をしたいと思います。待降節の日々、自らの思いを語ることよりも、まず第 1 に神のみ声を聞くことを大切にしたいと思います。神のみ声を聞くということは、礼拝において与えられている基本姿勢です。神の御前に立つように招かれていることを感謝し、神のみ声を聞くために沈黙して過ごしたいと思います。待降節、時与えられて主の御前にしっかり立つことができるように神の御前に立つ姿勢を整えたいと思います。

]]>
むなしい生活からの脱出 /bell/9321/ Sat, 25 Nov 2023 15:00:56 +0000 /?post_type=bell&p=9321  今朝の聖書には、「生活」という言葉が二度出て来ます。18 節には「先祖伝来のむなしい生活から贖われた」とあり、17 節には「その方を畏れて生活すべきです」とあります。かつての生活から贖い出され、新しい生活に変えられた、それがキリスト者だと言うのです。キリスト者の新しい生活は、前回の箇所では「心の腰に帯を締め、身を慎んで、主イエスの再臨における救いに希望をかける」生活と言われ、また「生活の全体にわたって聖なる者となれ」とも言われました。
 今朝は、それに続いて、主イエスを信じる者の生活の変化は、「先祖伝来のむなしい生活」から贖われたのだと言われます。かつては共にいてくださる主イエス・キリストを知らず、神に信頼を置くことを知りませんでした。その生活はむなしかった。しかし今はそのむなしさから解き放たれて、救いの中に入れられています。それは「贖われたのだ」と言います。「贖われた」とは、身代金を支払って買い戻されたのです。
  救いとは贖われることです。贖われることによって新しい生活に入れられます。この生活の変化は、奴隷が贖われる様子で、ありありと理解されます。聖書の時代には、厳しい生活の中で負債を負い、返済ができず、奴隷に身を落とす人がいました。また戦争の捕虜として奴隷になった人もいました。そこから再び自由になり、自由な自分を取り戻すには賠償金や身代金を払って自分を買い戻さなければなりませんでした。金や銀が必要だったわけです。奴隷状態はまた、個々人が経験するだけではありませんでした。民全体が奴隷状態になることもありました。イスラエルの民の出エジプトの経験、またバビロン捕囚の経験です。神の救いの出来事は、奴隷状態からの贖いの出来事と理解されました。
 「先祖伝来のむなしい生活から贖われた」と言われます。「先祖伝来の生活」は、元来の言葉の使用法から言いますと、自分勝手な気ままな生活でなく、むしろ先祖伝来の名誉ある、誇らしく、高貴な生活を語る語り方でした。日本語でも「先祖伝来の生き方」を守ることが誇らしく語られる場合があるでしょう。しかしここでは価値が逆転して、かつてはむしろ「むなしい生活」で、そこから解放されなければならないと言われます。通常の言葉の用法が逆転されています。ペトロの手紙によって出現した稀な用法と言われます。主イエス・キリストの十字架とそこに示された神の愛、主の復活に示された神の力が、私たちを新しい生活へと連れ出し、むなしい生活から希望のある生活へと転換させます。先祖伝来の生活は、異教的な神々によるむなしい生活で、この「むなしさ」には、「誤った」とか、「ばかばかしい」という形容詞がいっしょに付くと言われます。
 そこから贖われるには、奴隷の場合、金や銀で身代金が支払われなくてはなりません。買い戻しには、筋のとおった手順が踏まれ、払われるべき相応のものが支払われなければなりません。そうでなければ、逃亡奴隷になって、正々堂々たる解放でなく、もし見つかったらまた奴隷に逆戻りすることになります。救いといっても、盗みのような救いでは、確かな救いになりません。法を満たす救いが必要です。
  イザヤ書 52 章にバビロン捕囚からの贖いが預言が記されています。そこに「銀によらずに買い戻される」(イザヤ52・3)という言葉が出て来ます。イスラエルは「ただで買い戻される」という預言でした。なぜなら「ただ同然で売られたから」だというのです。それがバビロニアによって滅ぼされ、捕囚とされたみじめな生活でした。その預言を踏まえながら、しかし主イエスにあっては「ただで買い戻される」のでなく、正当な手続きを経て、しかも「金や銀のような朽ち果てるものによらず、キリストの尊い血によって」買い戻されたと語られます。むなしい生活に陥ったのは、私たちに何の落ち度もなかったのにとは言えません。そのとき主イエスは、道理を満たし、踏まえるべき手順をしっかり踏まえ、しかも遥かにそれを越えた値を払い、それ以上ない確かな、堂々たる救済を遂行してくださったのです。きずや汚れのない、そして朽ちることのないキリストの尊い血が支払われたのはそのめです。尊い血は、主の尊い命そのものです。キリストの尊い命が代償として支払われたことで、私たちはそれまでのむなしい生活から贖い出され、その結果、新しい生き方、キリストのものとされた人生に変えられたのです。神の偉大な救いの業が正当な手続きを尽くして実行されました。
 こうしてキリストの尊い命の代償により、キリストのものとされて、キリスト者の新しい人生が始まりました。17 節で語っている生活がそれです。「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけている」。この文章は、「父よ、と呼びかけている」が先頭に来ています。ですから「父よ」とあなたがたは神に呼び掛けている、それがすでにキリスト者の新しい生活です。しかも公平に裁かれる神にそう呼び掛けていると言うのです。
 「父よと呼ぶ」のは本来、主イエス・キリストだけがなさったことでした。私たち
もそう呼ぶのは、主イエス・キリストの尊い血による贖いの業に基づき、主イエスと
共にあり、その主から御霊を受けてです。主イエスは私たちを御自分と同じく神の子
の位置に置いてくださって、神を「父よと呼べ」とおっしゃってくださいます。神と
人間を親と子の関係になぞらえ、神を父とするのは多くの宗教にあることです。旧約
聖書の中にも神との関係を父と子の関係で語ることはありました。しかし主イエスが
神を「アッバ」と呼んだのは、ただ父と子の一般的な関係で呼んだのではありません。「アッバ」は、きわめて親密な父への呼びかけで、主イエス以外の誰もその呼びかけで神を呼んだ人はいなかったのです。神は主イエスのこの上なく親密な慈愛の父です。イエス・キリストがその尊い血によって贖いを果たされたのは、私たちを神の子として、主イエスが呼ぶのと同じ呼びかけで、親しく「父よ」と信頼を込めて呼ぶことができようにしてくださったのです。主イエス・キリストにあっては神の愛から何ものも私たちを引き離せないものとされました。
 しかも父である神は、神として「公平に裁く方」であることを少しも損なっていません。「公平に」という言葉には「顔」という言葉と否定語の「無」という言葉が合わされています。顔によらない、例外なしの裁きです。信仰のない人は信仰のない人として裁かれますし、信仰のある者も信仰のある者、罪を赦された者として裁かれます。
 キリスト者は「神を畏れて生活すべきだ」と言われます。これが「新しい生活」です。主イエスの尊い血による贖いを受けた者が、罪を赦された者として、神に「父よ」と呼びかけるとき、赦された者だけが懐く神への畏れ、畏敬をもって神の御前にあります。詩編 130 編に「主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(4節)と言います。罪を赦された者こそが神を深く畏れ敬うと言えるでしょう。罪を赦されず、救いを知らなかったら、公平に例外なく裁かれる神を、ただ恐怖する以外にないのではないでしょうか。御そばに近づけません。しかし主の尊い血によって贖われ、罪を赦された者が知る恐れは、震えおののく恐怖ではありません。深い畏敬の中に揺るぎない信頼と大きな喜びが含まれます。そして感謝が懐かれます。赦された者だけが知る神への畏敬があるのです。その神への畏敬は、信仰の人生を生きる真面目さ、誠実をもたらすでしょう。罪赦されて知る神への畏敬の中で、信仰は試練を潜り、雑り気のない純粋な信仰になるのではないでしょか。そしてまた罪赦された者として知る神への畏敬の中で、どんな時にもその赦された人生を生き抜く勇気が湧くでしょう。主イエスの尊い血、尊い命が支払われることで、神への畏敬による新しい生活に変えられのです。主イエスの尊い血によって贖われたキリスト者の新しい生活は、罪赦された者だからこそ知る神への畏敬の生活であることを深く覚えたいと思います。

天の父なる神様
 御子主イエス・キリストの尊い血によって贖われ、罪赦された者として聖前(みまえ)にあることを感謝いたします。聖なる御神の御稜威(みいつ)を畏(かしこ)み、御栄光を拝し、御力に服して、御栄のために生きることができますように。主イエスにあって聖なる神の愛と慈しみを証しすることができますように、御子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

]]>
神に愛され、選ばれて /bell/9303/ Sat, 18 Nov 2023 15:00:25 +0000 /?post_type=bell&p=9303  本日は子ども祝福・家族礼拝です。子どもも大人も一緒に集まって、礼拝をささげるとっても嬉しい日です。この嬉しい日の朝に、みんなでお読みしている聖書のお話は、パウロさんが書いたお手紙の内容の一部分です。さて、みんなはこのお手紙を書いたパウロさんがどんな人だったか知っているでしょうか。「お名前は聞いたことがある!」って人も中にはいるかもしれません。このパウロさんという人は、色々な教会にあてて、たくさんのお手紙を書いた人です。みんなが読んでいる聖書の中には、パウロさんが書いたお手紙が他にもたくさんあります。ですから、「パウロさんが書いたお手紙を読みたい」と思ったらみんなは聖書を開けばすぐにパウロさんのお手紙を読むことができます。このように、聖書を開いてパウロさんのお手紙を読んだり、パウロさんのことを知ったりすると、きっと、みんなとパウロさんとの距離が近くなっていくと思います。ですので、パウロさんとの距離を縮めるために、今日は少し、パウロさんって一体どんな人だったのかということをお話したいと思います。
 さて、みんなはパウロさんが何年くらい前の人か知っているでしょうか。たくさんお手紙が残っているってことはパウロさんはそんなに昔の人じゃないのかなって思う人もいるかもしれません。でも、実はこのパウロさんは、今から約1950年近くも前の人なのです。とっても昔の人ですね。パウロさんが生きていた約1950年前、今からとっても昔の時代には、びっくりするくらい大きな国がありました。それはローマ帝国という国です。パウロさんはこの大きなローマ帝国という国の、タルソスという町で生まれ、育ちました。このローマ帝国には、タルソスだけでなく、他にも沢山の町がありました。例えば、アテネやコリント、また、今日皆で読んでいるお手紙、「コロサイの信徒への手紙」の、「コロサイ」というのも、このローマ帝国にあった町の名前です。
 他にも数えきれないほど多くの町があったこのローマ帝国で、パウロさんはたくさん旅行をしました。旅行と言っても、パウロさんは遊びに行ったり、何か観光地を見に行くために旅行をしたわけではありません。パウロさんの旅行には大切な目的がありました。それは、まだイエス様や天の父なる神様のことを知らない人たちと出会い、イエス様や神様についてお話しする、という目的でした。そのために、パウロさんはこの広い広いローマ帝国のいろんな町に行きました。今みたいに新幹線や飛行機、電車も車も自転車もありませんから、パウロさんはこの広いローマ帝国を歩いて旅行したのでした。これだけでもびっくりですが、パウロさんはなんと、約三十年近くも旅行したのです。
 パウロさんが約三十年近くもローマ帝国の中を歩いて旅行し、イエス様のこと、神様のことを伝えてくれたおかげで、イエス様のことを信じる人たちが少しずつ増えていきました。そして、このイエス様を信じる人たちがそれぞれの場所で集まって礼拝をささげるようになり、教会が生まれていったのでした。イエス様のことを、神様のことを知らなかった人たちが、イエス様を、神様を信じるようになって、みんなで礼拝をささげる教会まで生まれたのですから、パウロさんはとってもうれしかったと思います。
 でも、イエス様のこと、神様のことを伝えるパウロさんのこの旅行は、いつも嬉しいことばかりだったわけではありませんでした。なぜなら、パウロさんのお話をきいて、イエス様のこと、神様のことを信じる人ばかりだったわけではなかったからです。パウロさんのことを嫌う人たちもたくさんいました。そういう人たちによって、パウロさんは石を投げつけられたりすることも、鞭でうたれたりすることもありました。ある時には、牢屋にいれられてしまうこともありました。
 だけど、そんな大変な目にあっても、パウロさんはこの旅行をやめようとはしませんでした。パウロさんは、たとえ牢屋に入れられて、捕まっている時でも、イエス様のことをお話しすることをやめなかったのです。また、神様を賛美するための歌、讃美歌を歌う事をやめませんでした。それだけではなく、パウロさんは牢屋の中からお手紙を色々な教会に送りました。それは「牢屋の中にいることが辛いからなんとかして助けに来て」というお手紙ではありません。イエス様のこと、神様のことを、教会に集まる人たちに教え、イエス様や神様を信じる人たちとしてみんながどうやって生活すれば良いのか、ということを教えるお手紙をパウロさんは牢屋の中から送ったのでした。
 こんな話を聞くと、みんなはどう思うでしょうか。パウロさんってすごい!特別な人だ!」って思うんじゃないでしょうか。もしかしたら、「パウロさんみたいにイエス様のため、神様のために働く人こそ、神様から選ばれて、愛されるべき人なんだ!」と思う人もいるかもしれません。だけど、パウロさんは他の人と比べて、自分だけが特別に神様に愛されているんだなんて言っていません。むしろ、今日みんなで読んでいるコロサイ教会に宛てたお手紙の中で、パウロさんは12節で、こう書いているのです、
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」
 ここで、パウロさんは「あなたがた」と言っています。決してパウロさんは、「わたしだけは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とは言っていないのです。そうではなく、パウロさんは教会に集められている一人一人に、みんなに、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」といっているのです。つまり、今朝、この子ども祝福・家族礼拝をささげているみんな子どもも大人も関係なく、すべての人に対して「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とパウロさんはいっているのです。
 もしかしたら、「先生、そんなのおかしいよ。だって、このお手紙はコロサイ教会に宛てて書かれたお手紙だから、私たちには関係ないじゃない」と思う人もいるかも知れませんね。でも、実はこのお手紙は私たちにも関係しているお手紙なのです。今日のお話の最初に、聖書を開くと、パウロさんのお手紙をたくさん読むことができるとお話しました。パウロさんのお手紙がこのようにして聖書の中にいれられて、今もこのようにして読むことができるということ。それは、パウロさんがそれぞれの教会にあてて書いたたくさんのお手紙が、その教会だけではなく、世界中どこでも、たとえ何百年何千年の時間がたったとしても、イエス様を、神様を礼拝する教会に対して向けられたお手紙として読むことができるからです。だからこそ、私たちは、パウロさんの「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」というお言葉を、私たちみんなに対しても言われている言葉としても聞くことができるのです。
 神様が私たちを選んでくださるって、とっても嬉しいことですよね。でも、同時に「どうして神様は私のことを選んでくれるんだろう」とも思ってしまうかもしれません。だけど、パウロさんは神様が私たちを選んでくださるその理由をはっきりとここで書いています。
 それは私たちが神様に愛されているからです。神様が私たちを愛してくださっているから、神様は私たちを選んで、聖なる者、つまり、神様の特別な存在としてくださっているのです。神様が私たちを愛してくださっている、というその証拠は神様が私たちを救うためにイエス様をクリスマスの日に送ってくださったことからも明らかです。
 なぜなら、クリスマスの日、イエス様が赤ちゃんとしてお生まれになったのは、この世界の誰も勝つことができない敵、罪や死から私たち救うために神様が送ってくださったからです。クリスマスの日にお生まれになったイエス様は、私たちを救うために十字架の上で死んでくださいました。そして、イースターの日に、この十字架の死からの復活によって、誰も勝つことができなかった罪や死という敵に勝利してくださったのです。だから教会は、クリスマスとイースターをとっても大切な日として守っているのです。
 このように、神様は私たちを罪や死という敵から救うために、神様が大好きでとってもとっても大切な独り子イエス様を差し出してくださるほどに私たちを愛してくださっている、ということがイエス様によって明らかにされているのです。だから、私たちはイエス様をとおして私たちに明らかにされた神様の愛にいつも感謝し、神様に向かって賛美の歌をささげながら、神様に選ばれ、愛されている一人一人として、今日から始まる一週間も歩んでまいりましょう。

祈り
 天の父なる神様、私たちを愛してくださってありがとうございます。神様が私たちを愛してイエス様を送ってくださったこと、神様がイエス様を私たちにあたえてくださるほどに、私たちを愛してくださっているから、神様が私たちを選んでくださっていること、聖なる者としてくださっていることを、今日、パウロさんの手紙から聞くことができました。どうか、神様に愛され、選ばれてる一人一人として、神様への感謝の思いを抱きながら、今日からの一週間も歩んでいくことができますように。この祈りを、イエス様のお名前によっておささげいたします。アーメン

]]>
人知を超える神の平和 /bell/9272/ Sat, 11 Nov 2023 15:00:42 +0000 /?post_type=bell&p=9272 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」
パウロはわたしたちにこのように語りかけます。わたしたちが、この世の生活の中で、あらゆることに思い煩ってしまうことをパウロはよく知っていましたし、パウロもまた、福音に生かされていても、ときに福音宣教の旅の中で、さまざまな思い煩いの中に苦しむことがあったことを、手紙の中で告白しております。しかしパウロは思い煩いの中で熱心に祈り、その祈りの中で、神の平和を与えられたのです。ですから、そのような恵みを受けた者として、わたしたちに「思い煩うことをやめなさい」と語りかけるのです。私たちの中で、思い煩ったことのない人などどこにもおりません。思い煩ってしまうのは、わたしたちの生活の中で日常的なことでありましょう。でも、できることならわたしたちも、思い煩わないで生きていきたいものです。なぜ、信仰に歩んでいるのにもかかわらず、わたしたちは思い煩ってしまうのか。ある人が厳しくもこのように分析しております。わたしたちは、じぶんがいつも愛されると言う自信がないのである。神がわたしたちを愛していると聞きながら、その愛を信じ切れないのである、と。それともう一つは、自分がこうだと思ったらいつでもそれが正しいと思うのである。つまり自分の見方を変えることができないのである、と。確かに、そういう頑固にも自分の思い込みや、自分の考え方を捨てることができずに生きているようなことがわたしたちにはあるのではないでしょうか。

 マザーテレサがこのように語っております。
「思考に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」
 はっとさせられるような言葉ではないでしょうか。もし、自分など、ダメだダメだ、といつも言っていたら、あらゆるダメな習慣を身に着け、否定的なことをいつも考える性格になり、ついに、良いことができない。愚かなことをしてしまうことが運命になるというのです。わたしたちの心の中にある思考、口癖。それらをまず自分の思いではなく、神の約束に変えなければなりません。わたしはたいしたことがない、という思考から、わたしは神から、宝の民として大切にされているという思考へ。わたしには才能がないという思考を捨てて、わたしには神に与えられた使命がある。そのために神が力を必ず与えてくださる、というふうに。そのように、聖書にちりばめられている神の約束に軸を置く。主の恵みの約束を基盤とするのです。それがわたしたちに求められていることです。
 主イエスも山上の説教の中でこのように語られます。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」これは、いくら思い悩んだからと言って、わたしたちは自分の寿命をいっときだって延ばすことなどできない、ということを語っておられるのです。しかしこれはあきらめを促す言葉ではありません。そうではなく、わたしたちの命の主権を担ってくださっているのは主なる神なのだと言うことを信頼しなさいということなのです。わたしたちが、寿命を延ばすために、健康的な生活を心がけたり、食べ物に気を付けたり、お酒や煙草を控えたりする必要などないというような、放縦を促すものでも決してありません。神の恵みの御摂理は、わたしたちの人間としての理性や、正当な分別を無にするものではありません。わたしたちの考えや、常識的な生き方を含めて、神は私たちが御心に適う生き方ができるようにしてくださるのです。でもその都度、自分の理性や知恵を駆使して、最善を求めて歩んでも、そこでもなおわたしたちは思い煩うものであります。まさにそこでもなお生じてくる思い煩い。それは、自分の人生を、神様なしで生きようとする心です。わたしたちは実にしばしば、自分の生き方を、神様なしで考えているときがあるのではないでしょうか。そのとき、わたしたちは、神の恵みによって与えられている命であり、神の恵みによって与えられた全ての時であるということを忘れて、自分の人生の主人は自分自身だと思っているのではないでしょうか。
 そうではないのです。わたしたちの人生の主人はイエス・キリストです。わたしたちはイエス・キリストにおいて神のものとされた。神の御支配の中に生かされている。神がわたしたちの人生に深い御計画を立ててくださり、最も良き道へと導いてくださる。だから安心なのです。4節でパウロはわたしたちに強く勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」喜びの根拠はいつも、主イエスの十字架と復活です。あの十字架を仰ぐとき、わたしたちの罪はすべて赦されたこと。神はわたしたちの罪のために御子をお遣わしになり、私たちの罪を贖って神の子としてくださったこと。主イエスの復活によってわたしたちも死を越えて復活の命にあずかる者とされたことを思い起こします。それが喜びと感謝の根拠なのです。

 それゆえに、喜びなさい、とパウロはわたしたちに語りかけます。わたしたちが喜びに生き、感謝の心に生きるとき、何をすればよいのでしょうか。それはまさに礼拝をささげるということです。礼拝とは、毎週の日曜日に礼拝堂でささげる礼拝であります。しかしそれだけではありません。ローマの信徒への手紙12章1節でパウロはこのようにも語ります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」つまりキリストの救いにあずかって、喜びと感謝をささげるわたしたちの全人生が、礼拝となるのです。その意味では、礼拝堂に出席できない方々も、その心において、礼拝をささげているのです。しかしそのためには、日々、祈りをささげ、そこで主を讃え、感謝を表さなければなりません。思い煩いの中でも、感謝を表し、祈りと願いをささげることはできるのだ、とパウロはわたしたちに教えてくれます。
パウロはこう語ります。
 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」わたしたちは求めているものを神に打ち明けてよいのです。それこそ、何でも、遠慮なく、子供が自分の父や母に対して、欲しいものをねだるように、これをしてください、これを下さいと願ってもよいのです。なぜならわたしたちは神の子だから、天の父はわたしたちの必要をよくご存じなのです。本当に必要なものは天の父は喜んでくださる。そのことを信頼して、打ち明けてもよいのです。
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 人知とは何でしょうか。それはわたしたちが地上で経験し、学び、理解し、知っている全てのことです。わたしたちは自分の知っていることに基づいて行動します。しかしそこに、神様のことを計算に入れないのです。つまり神様の愛によるお計らいがある、ということを考えないで、自分の知恵、自分の力だけでなんとかしようとするのです。だから私たちの心から、思い煩いが消えないのです。ある人がこのように語ります。わたしたちの心配について、神がなさる場所を空けておこうではないか。神の心配にしておきなさい、と言うのです。わたしたちはここで、知恵と信仰のふたつが必要なのです。理性や分別において、できる限りのことはしなければなりません。でも、全部してはならないのです。勝手に、全てを決めて、神様なしで進めてはいけないのです。本当に大事なところ、神の御心が問われるところがあります。そこを空けておくのです。それ以上行かないのです。動いてはいけないのです。そうすると、神様がそこを、御自身の心配にしてくださる。わたしたちは憂いの中であたふたとうろたえてしまいます。しかし、神様は決してうろたえることはありません。なぜなら、神は全知全能なる方であり、その全知全能のご意志は、いつも深い愛に基づいているからです。わたしたちの人生はこの、愛と、全知全能の中に今日も生かされています。そしてわたしたちは永遠の御手の内にあるのです。だからこそ、わたしたちは、全てをゆだねることができるのです。どうか皆さんの心の内に、あらゆる人知を超える平和が支配してくださり、御心に適う歩みができますように。

 お祈りをいたします。
天の父なる御神様。わたしたちの心に、平和を与えてください。なかなか、自分の心にある思い煩いを捨てることができません。悩みの中で、わたしたちは自分の思いだけで、生きようとしてしまいます。その不信仰をお赦し下さい。そしてどんなときにも、わたしたちがあなたのものであり、最も良き計らいの中に生かされていること。万事が益となること。幸ならぬ禍はないことを本当に信じきる者とならせてください。あなたの御心に適う歩みができますように。いつも、主が私たちの内に生きてくださっていることを思い出させてください。今週の一週間の歩みを豊かに導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

]]>
心の目を開いてください /bell/9217/ Sat, 04 Nov 2023 15:00:39 +0000 /?post_type=bell&p=9217  聖徒の日、召天者記念礼拝です。教会全体で天国にお送りした愛する神の家族を覚
えて祈る日です。
 そもそも私たちが祈るということは、どういう意味があるのでしょうか。祈りは、
キリスト教に限らず、人間は祈ってきました。人間は祈る動物という言葉もあります。誰でも祈ることがあると思います。「苦しい時の神頼み」といわれるように、ふだんは祈らない人、特別な信仰心を持たない人であっても、病気や災難で途方に暮れた時は、神や仏を探して祈って助けを求めようとします。小さなことでも大きなことでもお祈りして助けてくださいと自分の限界を感じた時、助けてもらいたい一心で祈ります。しかし、もう一方で、私たちは簡単には祈らないものです。限界を感じない時には祈ることを忘れ、成り行きに任せて諦めて生きることもあります。祈ることの意味も考えずに生きています。祈ることの大切さを失っている現代社会があります。祈っても無駄ではないかと考え、祈らない人間になってしまいます。日常生活で祈ることがあっても、自分中心の祈りになって、私の欲望を叶えてくれる神なら祈るが叶えてくれなければ祈らないという姿勢をとることもあるでしょう。
 そのような真実の祈りを失ったような時代の中でキリストを信じる教会、私たちは、なぜ祈るのでしょうか。一言で答えるならば、私たちはキリストに結ばれているから祈るのです。私たちが祈る理由は、私たちの願いや心配があるから祈るのではなく、キリストに結びあわされているからです。私たちが満足しないから祈るのではなく、キリストと結び合わされているから祈るのです。祈りの出発点は私たち人間ではなく救い主であるキリストの祈りこそが祈りの出発点なのです。
 私たちが祈る時、忘れてはならないことがあります。それは私たちに先立って、私
たちのために祈っておられる救い主がおられることです。聖書には主イエス・キリス
トが祈りの人であったことが記されています。主イエスの弟子たちは祈る主イエスを
見て「私たちにも祈りを教えてください」と願いました。祈る主イエスの姿を見てい
たのが弟子たちです。主イエスはシナゴーグの集会で祈りました。独り寂しい所で祈
られました。山に登り徹夜の祈りをささげました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ 22:32)主イエスが弟子たちのために祈っていたことが分かります。主イエスは弟子たちだけでなくそれ以外の多くの人々のために祈っています。会食をする時、賛美の祈りをささげました。最後の晩餐の席でも感謝の祈りをささげました。
 主イエスは祈りを教えました。神を「アッバ」すなわちお父さんと呼び、父なる神
に祈ることを教えました。人々に気を落とさず絶えず祈りなさいと教えました。私た
ちが祈りたいから祈るのではなく、神の祈りの交わりに積極的に加わって、いつでも
どこででも祈ることができることを教えられています。アッバ父よと祈る主イエスは、神への信頼の祈りのなかに弟子たちを迎え入れ、主イエスの祈りの交わりに弟子たちが加えられました。キリスト教会の祈りは、この弟子たちに続いて、祈る主イエスに迎えられているから祈るのです。主イエスの愛のご命令として、主イエスの祈りに感謝して私たちは祈るのです。主イエスが私たちのために信仰がなくならないように、祈ってくださるということは、言葉に尽くせない恵みではないでしょうか。私たちは神に祈られているのです。昨日も今日も明日も、私たちの祈りに先立って、主イエスが熱心に祈っておられることから明かです。
 礼拝の奉仕をする前に必ず祈ります。その時、思い起こさなければならないことは、あの私たちの祈りの前に主イエスが祈ってくださっているということです。私たちの祈りの前にいつでも主イエスが先立って祈っていてくださるのです。寝る時も朝起きる時もこのことを覚えて、神様に感謝し、祈りたいものです。
 本日与えられた聖書の御言葉は、使徒パウロの祈りです。パウロは牢獄の中で熱心
に祈りました。牢獄の中ですから、独りで祈っていました。隣に祈りの友はいません。しかし、熱心に祈るのです。キリストに結び合わされているからです。救い主なる主イエスに祈られていることを信頼し確信しているからです。15 節でパウロはこう祈っています。「15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いてくださるように。」
 パウロはエフェソの教会が主イエスを信じる群れであることを感謝して、神が知恵
と啓示と霊を与えて、エフェソの教会の人々の心の目を開いてくださるように祈って
います。
 エフェソの信徒への手紙は、牢獄の中に閉じ込められているパウロを心配している
人々に宛てて送られた手紙です。教会の指導者であるパウロが牢獄に入れられたこと
によって、エフェソの教会の人々は動揺したり、信仰を捨ててしまう人で揺れ動いた
と思われます。パウロを失い、同時に希望も失ってしまいました。しかし、パウロは
牢獄の独房からエフェソの教会の人々へ、手紙をとおしてキリストに結び合わされて
いることを確認し、エフェソの教会のために祈り、離れていても信仰によって繋がっ
ていることを伝えています。
 牢獄の中でのパウロの祈りは、私たちに大切な事を教えています。私たちはたとえ
牢獄の中にあっても、祈ることが出来るということです。神を信じる信仰によって、
たとえ牢獄でもキリストに結び合わされているということです。キリスト教の祈りは
一人隠れて祈る祈りでもあるのです。たった一人で祈っていても私たちは決して孤独
ではありません。主イエスに祈られています。信仰の友、教会の祈りに支えられてい
るのです。エフェソの信徒への手紙を通してパウロの祈りが獄中からの祈りであった
ことはほとんど気がつかないのではないでしょうか。「独りの祈りは、共同体の祈り
に基盤を持つ」(近藤勝彦)、パウロの祈りはエフェソ教会の祈りに土台をもって繋
がっているのです。共同体の祈りとは礼拝の祈りです。主イエスの祈りによって祈ら
れている教会は、父子聖霊なる三位一体の神の祈祷会に招かれ加えられているのです。獄中にいてもこの世の権力者を恐れず、神のみを恐れて祈るのです。この世の権力者がもつことの出来ない、死から命へ、復活の力をもっているからです。22 節「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」使徒パウロは、「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサ 5:17)と書き記しました。「6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ 4:6)
 パウロの祈りは感謝を土台として、神を信頼して何でも神に打ち明けなさいと教え
ています。
 宗教改革者ジャン・カルヴァンはキリスト教の祈りの特質を語りました。第 1 は全神経と全努力を注入して祈ること。第 2 は自分自身の貧しさと求めるべきものの必要性を真剣に考えること。第 3 は祈りの中でへりくだり、罪の告白と赦しを願うこと。第 4 は祈りは聞き届けられるとの確信を持つこと。この4つを心に覚えて、祈り続けたいと願います。
 召天者記念礼拝において、先に天に召された方々の名前を通して、全ての人が教会
の信仰の交わりにあること、神の家族の信仰によって繋がっているお一人お一人であ
ることを覚えたいと思います。この方々も私たちも、主イエスの祈りによって覚えら
れている一人一人であることを感謝して覚え続けたいと願います。

]]>